教皇の死後(辞任後)、15日~20日の間に開かれます。
選挙権は80歳未満の枢機卿で、定員は120人となっています(最新版、選挙権を有する枢機卿リストはこちら[教皇庁サイト・英語版])。
会場は使徒宮殿内の、ミケランジェロの「最後の審判」で有名なシスティーナ礼拝堂。
「コンクラーベ」ということばは、ラテン語に由来します。ラテン語のクム(ともに、一緒に、の意味)と、クラービス(鍵、キーの意味)が一つの語になっているのです。直訳すれば、「鍵とともに」。なぜそういうのでしょう。
ローマ時代の雄弁家キケロは、「秘密の場所、あるいは建物の立ち入り禁止の場所」を指して「コンクラーベ」と言っています。教会では教皇選挙が行われる場所と選挙者の集団を指しています。
コンクラーベという用語が教会に取り入れられたのは、1268年、イタリアのビテルボで行われた教皇選挙の時からというのが通説です。教皇クレメンス四世はビテルボで没し、ここでコンクラーベが行われました。有権者は18人でしたが、イタリア派とフランス派に分かれて、3年間空位が続きました。
数カ月経っても合意がないので、当時のフランシスコ会の総長、聖ボナベントゥラの勧めで、ビテルボの人たちは枢機卿たちを宮殿に閉じ込め、鍵を閉めて、外部との関係をいっさい絶たせ、食料もパンと水だけを供給し、武装した人たちで城を囲ませ、他の食事を運び込ませんでした。その結果、1271年9月、6人の枢機卿の妥協による選挙によって、イタリア人の教皇グレゴリオ十世が選ばれました。その後、使徒座空位期間を長引かせないため、グレゴリオ十世は、教皇選挙の規則を作ったのです。
現在の教皇選挙(コンクラーベ)の規定は、教皇ヨハネ・パウロ二世使徒憲章『ウニベルシ・ドミニチ・グレジス−−使徒座空位と教皇選挙について(1996年2月22日)』[英語版全文]をもとに、教皇ベネディクト十六世による自発教令、『ローマ教皇選挙の規定の一部改正について(2007年6月9日)』[仏語版全文]と、自発教令の形式による使徒的書簡『ノルマス・ノンヌラス−−ローマ教皇選挙に関するいくつかの規則の変更について(2013年2月22日)』[英語版全文]による改訂が加えられています。選挙は以下の手順で進められます。
- 教皇選挙(コンクラーベ)は、前教皇の死去ないし退位により教皇空位が生じてから、丸15日が過ぎてから開催されます(第37条)。これは、教皇選挙権を有する枢機卿全員がローマに到着するのを待つためです。ただし、全枢機卿が揃った場合、枢機卿団は教皇選挙の開始をこれより早めることができます。また、重大な理由がある場合には15日から数日延ばすことができますが、20日を過ぎたら選挙手続きに入らなければなりません。この規定に従って定められた教皇選挙の開催日程に選挙権をもつ枢機卿が集まり、ミサをもって教皇選挙が始まります(第49条)。
- コンクラーベで教皇が選ばれるには、投票総数の3分の2以上の得票を得ることが必要です(第62条)。
- 投票は初日午後に1回行われ、この投票で決まらなければ続く2日に、午前・午後2回ずつ行うことができます(第63条)。
- 3日間の投票で決まらない場合は、最大1日の祈りの期間をおいてから、同じ手順で選挙をし、7回の投票をしても決まらなければまた1日おいて7回行います。それでも決まらない場合、また1日おいて7回行われます(第74条)。それでも決まらなければ、1日の祈り、考察、対話の期間をおいてから、前回の投票における上位2人の得票者について決選投票を行い、投票総数の3分の2以上の得票を得た人が選出されたこととなります。なお、この2人は決選投票には加わりません(第75条)。
- コンクラーベは教皇が選出され、被選出者が教皇となることを同意したときに終了します(第91条)。